10月16日

なんでだよ、なんで小学国語の音読を聞くだけで、こんなにも切ない気持ちになったのだろう。

とことん笑ってる人ってマジ怖くない?

不気味な微笑みを浮かべながら迫ってくる圧迫感が半端ないな。

一週間経って、やっと自己紹介のところにきた。

ジョブスの話を思い出した、

「明日死ぬだと思って、再び考えよう、自分がしたいことは一体なんなんだということを。はっきりしますよ。」

うおっw、めっちゃ気を遣われた。こういった気遣いはやけに気まずくなる。元々それつもりはないと言い出しても多分無力で頼りのない言い訳に聞こえてくるだろう。

ところで、この場合はまさにドラマのマンマンじゃないか。よくある話じゃないか、クラスの一人ぼっちが先生に気を遣われてそもそも胸糞な気持ちが一層向上することやら。

ほっといとくれ、せんせい!やけに気まずいから!

本当に事細かくて死ぬ。

もういいだろと思ったらまたやられた。

そういえば朝から死にかけのことを忘れた。正直今でも死にそうな気がするよ。もし今誰かに一発腹を打たれたら多分即死くらいだ。

小学生の教科書おもろすぎてシンプルな物語こそ人の心に直撃するよね。犬の死んだありふれた感動ばなしなのに、結構泣ける。

こういってもおかしいが、日本の小学生もその教科書をみるみるうちにかなに馴染んだのだろう。最初から漢字など知らず仮名本位。そう、実は簡単なたかが優先順位のことであるけれども、中国人は漢字本位のおまけに意味に対する探究欲があまりにも強すぎる。その原因はおそらく漢字という文字単位の意味密度あるいは意味を含めるパセンテートの高さである。

それともう一つ、学べば学べるほどタイプしてる時は漢字でなくかなで表記したい傾向が増しているのである。

おっと、言語自体の小難しい討論はそこまで、本心に従いもしたいけれど、やはりもっと現実的かつ有意義なことを語ろう。

またそういえば朝飯食わなかったっけ、腹痛が。しかし、飯を食った後口に残る吐き気を催す味より空腹の方がずっと気持ちがいい。

ところでみんなは一体何をしているだろうか。

最近思った、唐辺葉介の文章は癖があるけど若くて生々しい文字がゆえに、実はJ L P Tやらとやたらと相性が悪くない。

癖ってよく言われるけど、あくまでも言葉の選び風格のことであろう。唐辺葉介だって子供の時から国語の教科書を学んで先生に教えてもらってきたじゃないか。文の構造自体、ともかく根底的な部分は変わらないと思う。

それと、先生はやはりやけに俺のことが気になりそうで、今日も話しかけてきて学び方や学ぶ年数や学ぶ通路とやらを聞かれまくっていた。何がそんなに気になるだろう?メリットもなければ意味もないのに、なぜ寄ってくるだろうか。

まあそれはともかく、いま典型的日本番組が絶賛放送中である。漫才のことも、お笑いのことも映された。実のところ、そこの辺に対しあまり詳しくないが、ごく重要な文化の一部であることは知っているのだ。それでもあまり見る気がしなく、やはり美感の欠けるところが気に入らないのだろうか。

我ながら自分が理解できない。


疲れるよね、こういう相槌の打ち方はあまりにも意図的すぎて聞いてる僕まで疲れるよな。


突然おもろいこと思いついた。

先生はおそらくvpnとやらの使用が忌惮してるかもしれない。

だから知りたいんだ。

まあ知らないのではなく、知ってもリスク高いから無理ってことだな。

まあそもそも本職は教師である限り、オタクみたいに自由自在に好きにやれないだろう。

しかし決めつけはよくない、もしかしたら私が知らない華奢な遊び方をされてるのもありえない話ではない。

正直過酷に言わなすぎたら教師たちも教師たちで実力がよくできているほうだ。せめて無料なネット教師よりよっぽどプロである。


確かに先生に注意されたらまた気づいた、自分の声が安定ではないことを。

でも別にいいんだ、俺は自分に夢中するタイプだということを自分も承知の上であるからな。

多分子供の頃に裏切られすぎていたかもな。それと繋がる気がする。

しかしどうせそもそも対話する相手がなければ、自分の声が人にどのような印象を与えたのを知るわけがない。

響きの帰ってこない


想像してみろ、 日本語、仮名しか持ってないだとしたら、 それを重視しないわけがあるまい。

しかし現実はそうはいかない。 生の人間の誰も話してくれない上に、 ろくに話せる場合も全くない。

とりあえず、今ということをしか掴めない。

今を堪能しよう!


それらもあくまでも自分の中で。

多分恥ずかしさもあったかもな。

寝ることと比べりゃ屁でもないよ。

本博客已运行
48篇博文   10.5w字